'97.7.21
 父一周忌
甲府にて

    7月19・20・21日と3連休だった。私の知り合いは誰もが
   「1日くらいはまた路上で演奏したのだろう」
    と思っただろうが、実は昨年8月に亡くなった父の一周忌で実家の甲府に帰っていた。

    暑い中お上人さんと親戚の方々にお越しいただき、無事に終了した。
    汗だくになりながら喪服を着ていると、やはり昨年の夏を、例年とまったく違っていた夏を思い出す。

    私の父は昨年8月11日に亡くなった。ちょうどその1年前に病気だと分かり、闘病生活を送っていた。
    亡くなる前日にだいぶ危機的状態で親戚一同が見守る中、父は頑張った。数秒の呼吸停止・・呼吸復活。
    これを繰り返した。


    励まし続ける家族・兄弟・親戚に対して一生懸命最後のサービスをしているように見えた。

    「こうやって生きろ。最後の最後まで生きろ」と教えてくれるようにも見えた。

    父の精神的な強さが無意識においても肉体に喝を入れているようにも見えた。


    翌日だいぶ安定した父を見て私と兄は、疲労にピークが来ている母に、車で10分程の自宅で眠るよう勧めた。
    親戚の皆さんも一時帰っていただいている。母はやや父を気にしながら帰った。
    
    安定していた父の呼吸が突如停止したのはその30分ほど後であろうか。
    ちょうど見舞いに来ていただいたおじさんと兄に父を見てもらい、私は車で母を迎えに走った。

    自宅に着くと母が泣き崩れていた。
    私は知らなかったのだが車で自宅へ向かう途中で父は息絶え、すでに電話で連絡が行っていたらしい。
    そうとは知らぬ私は「まだわからない。急げ。」と母を車に無理矢理押し込んだ。
    普通では眠る事もできないと思った母は医者からもらっていた睡眠薬を少々飲んでいてぼんやりしている。
    病室に着くと兄が一人父の前に座っていた。

    最期は兄が看取ってくれた。私はそれで良かったと思った。だが母にはすまないと思っている。
    そんな心をわかっているかのように母はその場ですぐに「絶対に後悔するな」と言った。

    父は63歳。肺ガンであった。


    父の病気

    ちょうど2年前、父の具合が悪いから病院に行ってくると母から電話があった。
    前々から見てもらうよう母は言っていたのだが、「仕事が忙しいから」となかなか言う事を聞かなかったらしい。
    大した事はなかろうと思っていたのだが検査結果の出る日に一応電話をしてみた。
    母が出た。

    「どうだった?」
    「・・・・よくない・・・」

    母は押し殺したように答えた。あまりはっきり言わない。近くに父がいるので喋れないのだろうと思った。

    しばらくして改めて母から電話があり、「どうも肺ガンらしい」と伝えられた。
    だがそれもあまりはっきり言われた訳でないような曖昧な感じ。
    医者が「ガンセンターも紹介できる」などと言っていたのは確からしい。
    母も話を聞きながら動揺していたのだろう。
    しかし母だけならまだしも、本人も聞いている前でいきなり「ガン」という言葉を出すなんておかしい。
    後でその時の医者に尋ねたらそれは否定していたが・・・。

    電話によると父はそれからぼんやりしていて様子がおかしいとの事。
    それはそうだ。検査結果で異常の無い事を聞きにいって「ガン」の言葉を聞いたのである。無理もない。
    しかししばらくしてわかったのだが、父の体にはこの時塩化ナトリウムが標準の人に比べ極端に不足していた。
    そのため、「ぼんやりとする」「すぐにものを忘れる」などの症状が現れて来たらしい。

    その件を聞いてすぐ、母から
   「外出しなければならないからその間お父さんを見ていてあげてくれないか。心配だから」
    との連絡を受けた。もちろんこちらも心配で週末は実家に帰ろうと思っていた。

    道が混んでいたため、だいぶ遅くなってしまったが実家に到着。
    
   「遅くなってごめん」と奥に入っていって驚いた。
    父がひとり奥の寝室でうなだれて座っている。
 
    尋ねると、書類の整理をしなければならないと思い、
    金庫を開けていろいろやっていたがすべて何がなんだか思い出せない、との事。
    このころから父は妙に身辺整理をしようとしていた。自分の体は自分がよくわかっていると言わんばかりに。

    しかしあれほど几帳面な性格でもの知りだった父が
   「何がなんだか自分でわからない」
    状態になった不安・心細さを思うと涙が出る程せつない気分になる。

    確かその日の夜、近くに済むおじさんが訪ねてきてくれた。ヤクルトが優勝を決めた日だと思う。
    一緒にそのテレビ中継を見た。
    おじさんが帰ってしばらくすると、父はおじさんが来ていたことすら忘れていたのである。
    このあたりから私の心配も本格的になってきた。

    それまで両親とも小さい病気・けがなどはあったがなんとかなってきた。
    今回もそれまでは
   「本当にガンかどうかもまだわからないし、そうだとしても今の医療なら直せるかも知れない。
     ウチの父に限ってそんなに簡単には・・。」
    と思っていたのである。そして、それはまったく甘い考えだったのである。

    父の病状はそれからすぐに悪化し、入院した。


    病院へ

    しばらくしてから担当医に直接電話をかけ、病状を聞きに行った。無論、父には内緒で。
    小細胞ガンの可能性が非常に高い。喫煙者が主にかかる病気で摘出手術は難しい。
    イメージとしては白血病なんかに近く、「ここ」というはっきりした部位を取り出せば済む類いの物ではないという。

    もしもその病気だった場合、2年後の生存率はかなり低いという。
    詳細な検査結果が出てくればはっきりするという。もしそうならばこれはやっかいだ。

    検査結果を聞きに2度目に病院へ。私は都合が悪く行けなかったので兄達に行ってもらう。
    電話で結果を聞くと、やはり小細胞ガン。
   「完全治癒は不可能と判断し、延命治療に入る。」
    この言葉を聞いて初めて私は「父の生命の終わり」をリアルなものと感じた。


    結局、本人には告知しなかった。母の意見を最も尊重した。それでよかったと思う。

    「告知してあげた方が本人のためだ」という意見もある。同意する部分は大きい。
    私も自分の時には教えて欲しいと思うが、一律には言えず状況にもよると思う。
    本人の性格や、物理的・精神的な環境など。

    告知しない場合で一番難しいのは「治療の方針を自分で決められない」という点だ。

    父も「ガンではないがそれに近いような治療をする事もあります」と説明され、抗がん剤や放射線の治療を受けた。
    もしも本人が病気の事を知っていたらどうしただろう・・・と思うとなんとも言えない。

    他の人たちが言うように、父も末期には自分の病気のことはわかっていたと思う。
    塩化ナトリウム値が下がってしまうという現象と、抗がん剤・痛み止めなど薬の影響などで
    最期にはいろいろ変な事を口走ったりした。

    「うんうん」と聞いてあげるのだが、一度私がひとり泊り込んで看ているとき、こんな事があった。
    夜中にやたらとどこかへ行きたがり、ベッドから降りようとする父を「ここで寝てなきゃだめだよ」と押しもどす。
    父は何よく訳のわからないことを言っていたのだが、ふとこんな事をしゃべり始めた。

    「この世をおさらばするにあたり・・」

    「何言ってんの。早く病気直してまた働かなきゃ」いつもどおり元気づけたのだが父は続けた。

    「この世をおさらばするにあたり思うのは、結婚して子供が生まれて、人並みに家庭というものが持てて、
      みんなと一緒に生活できて本当に楽しかった。」

    「・・・・うん。だから今日は早く眠って早く病気を直そう。」私はそう返すのが精いっぱいだった。




    一時退院

    亡くなる半年前の正月。医者から「最後のお正月になるかも知れない」といわれ、一時退院した父。
    まだまだ元気だった。少なくとも2年は大丈夫だろうと思った。

    少し息が苦しいという程度で、車の運転なども普通にしていた。久々に我が家に帰った父は上機嫌だった。

    その年の春。
    まだまだ体調は良く家にいた。母を車で花見に連れまわしたそうだ。
    思えばあの頃すでに自分の運命を悟っていたのかも知れない。

    私も花見に行く予定で実家に帰ったときがあったが、友人の結婚式で泥酔してしまい、行けなかった。
    なんとその時は友人宅まで父が車で迎えに来てくれたらしい。
    「こいつの酒癖の悪さにも困ったもんだ」最後まで心配をかけてしまった。

    夏が近づくにつれて父は急激に弱っていった。
    毎週のように実家に帰っていたのだが、行くたびに目にみえて衰弱していくのがわかった。

    今でも忘れない。
    「じゃあ戻るよ。来週また来る。」
    と言うと、決まって
    「俺は大丈夫だからそんなに無理しなくてもいいぞ。」
    と強がる。
 
    しかし、見送りに外へ出る気力も無いようで、縁側のところでぼんやりとうな垂れていた。
    そんな父の姿を見るたびに、「もうこれで最後かもしれない。しっかり目に焼き付けておこう。」と思った。
    後ろ髪を引かれる思い。

    どうか来週まで生きていてくれ。と念ずるしかなかった。


    最後の入院

    もう家で見ることも限界になった。
    父は最後の入院をした。母・兄・私・私の家族、皆必死で看病した。

    印象に残っている情景がある。小田原に出張した時、仕事が終わった後そのまま車で実家まで帰った。


    富士五湖を越え、精進湖線を下っていく時花火が見えた。遠くにチラリと見えただけだったが、
    夏らしい楽しげな賑わいが想像できた。父にも話してあげようと思った。

    病室は暗かった。父の具合は悪く正常に話ができる状態ではなかった。
    あの華やかな花火と父の衰えていく姿のコントラストは鮮明に覚えている。


    よく父を車椅子に乗せて病院をぐるぐる回った。
    いろいろな話をした。前にも書いたが、最後はあまり理路整然とした話は無く、
    何か思い付いた事、よくわからない事をぽつぽつ喋っていた。

    それでもたまにドキッとするようにクールなことを言ったりした。

    「どうやって社会のお役に立って行けるかという事だな」

  公務員だった父らしい一言だった。


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    一周忌ということで長いこと1年前の思い出話しを書いてしまった。
    「亡くなってしばらくたってからまたいろいろ感じてくるよ」とよく聞く。
    まったくその通りだ。

    今になって「ああこれも父に聞かせてやりたかった」という事が後から後から出てくる。

    しかし後悔はない。

    父の分まで、父のできなかったいろんな事を経験して楽しんでやるぞ! と思う。
    その土産話を心の中で父に教えてあげるのである。